話題になっている、のぶみさん作詞の『あたし、おかあさんだから』
いろんな受け止め方あると思う。
私は、歌は聴いてないんだけれど、
歌詞だけ読んで、
おかあさんだからって色々我慢したり頑張ってることもあるけど
それでも「おかあさん」になれて「あなたに会えて」よかったよ。
こんなお母さんでも、「おかあさん」であること、誇らしいんだよ。嬉しいんだよ。
って感じました。
では、お母さんと言うものは、子どものために「我慢」を強いられるものなのか?というと、歌詞からはそういう風には聞こえないな~~と。
多少の我慢、不満はありますけどね(^^;
こども、夫との共同生活ですから、ましてや小さな子どもは「言う通り」にはなりませんし、そういうものです。
赤ちゃんは親を選べない、と言う考えもありますが、
胎内記憶研究では、赤ちゃんは選んでやってきているし、
ひろ~~~~い視点で見ると、お互い選んできたような、一緒にいることが
運命なんではないかなぁと。
一緒にいない!とその後選択することがあっても、それもまた運命。
ちょっと話はそれましたが・・・
赤ちゃん相手でもそうでなくても、多少の我慢や不満はある。
程度はさまざま。。。
これは「おかあさん像」を強いている!けしからん!
という主張が多くみられたというのは、
ママさんたちが、自分の思い描いている「おかあさん像」を強く持っている
そしてそれらにはママの数だけ「おかあさん像」があるように個人差があり
その人その人の「おかあさん像」(理想も実体験も含めて)をたいせつにしている人が多くいる、ということでもあるのかなと。
そしてその多くの「おかあさん像」に「我慢しない」「じぶんらしく」の要素を含むママが大多数で
批判的感想を持つママさんは、その理想と現実のギャップに苦しんでるのではないか・・・
そういう意味では、
「癒し」「起業」「スピ」ブームが到来したとはいえ、
上手くいった方もいれば、こじれてしまった方もいて
育児、ふだんの生活、じぶんらしい生き方を模索しているママはまだいるん・・・
これを「社会の問題」と言ってしまうよりは
当事者として
個人ベースでのケア、サポート、をどう要望し、受け取っていくか
自分自身と、家族と、話し合うこと。
家族で話していける環境づくりを
大切にしていけたらいいなぁ
私も、わすれないように。と思うのでした。
その手前から、話し合いの場にたつところから、って方もいらっしゃると思いますが。。。(**;
共感できた、豪田トモ監督のコメント。