ふつー、が生まれる毎日から。

"自分"に向き合った先には、『ふつう』がありました。ふつうって、幸せとイコールだった。そんな話を、私と、ムスメと、旦那さんとの毎日から。たぶん。

『お母さん』してていい=何者にもならなくていい

次女が生まれてもうすぐ4か月になりますが、もう、うんと昔からそこにいたような、そんな存在感を感じています。

生まれた時は、なんとも不思議な、『はじめまして』な感覚でした。けれども、ほぼ24時間一緒にいて、出会ったのが4か月前?ほんと?って感じです。

夫婦もそうなのかも。笑

『はじめまして』から、4か月。

ふと、次女との関係性は積み上がりつつあるのかしら?と思いました。

置いてきぼりにしてないかしら。

目の前の子を見て、あ〜、私はお母さんだった。お母さん、していいんだった。と思ったのです。

 

お母さんしていい、というのは、親であるという権力行使ではなく(笑)、一緒にいることのできるひと、という意味での【お母さん】であっていいという意味。

 

特別なことしなくても、お母さんであることには変わりなかった。

そう在らせてくれる子の存在がありがたい。

 

何者かになろうとすると、途端に私はモヤモヤが倍増し、今ここになかなかくつろげず、ソワソワしてしまったり、思考がぐるぐるしたり…します。

 

私は私でよかったんだ。と思えると、ハッとします。

 

お母さんである、ということは、時に煩わしい肩書きのようであるかもしれない。

だけれど、この子達の(短い間かもしれないけど)側に居れる存在であるというのは、ひとつ特権のようにも思える。

 

時にその絆のような、腐れ縁のような、家族的なものが疎ましく思う時もあるかもしれない。

 

それは体感してこその、疎ましさ。

近くて

愛おしいからこその、感情もあるだろう。

 

私がら子どもたちにお母さんにさせてもらったコトの意味は、

自分は自分で、何者にもなろうとしなくていいんだよ、という事でもあるのかなと思った。

世の中や固定観念にある『母親』像にもならなくていい。『女性』像にもならなくていい。

私のまんまで、お母さんでも在れる。

そんな幸せなことがあるだろうか。

 

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