子どもを通して見られたいという気持ちに気づいた。(2)
前回の記事のつづきです。
私にとって出産・子育ても、「子どもがいる」というステータス的な所、
あったと思うんです。
そしていろんなところで、良いこともイマイチなことも「子どもを理由に」する。
そんな自分がイマイチであることに薄々気づきながら、
自分を勝手におとしめて、
自信を勝手に無くしていました。。。
自信がひとり勝負だってことも、実は知っていたけど、気づかないふりしてた。
気づいてしまったら、
人に指摘でもされてしまったら、
向き合わずにはいられないからです。。。
でも、今回のミッションで気づいてしまったので、
私はそこを置いていくことはしません。
きっと、ひとり勝負するには、あまりにも人に頼れていなかったんだろうと思います。
高校、大学、新卒就職・・・ 助けてもらっていたにも関わらず、
私は頼れていなかった。ひとりで頑張りすぎている気になっていて。
だから、頑張らなくてもいい免罪符のような理由が欲しかった。
子どもがいても、いなくても、
がんばっても、がんばらなくても、どっちでもいいのに。です。ww
自分がしたいこと、にまっすぐ目を向けていませんでした。
当時、就職もしたくなくってwww
すごく奮い立たせていたな、と思います。
何がしたかったのかって?
好きな人と結婚して、
ぼちぼち働きながら、ぼちぼち家のことをする。
が当時したかったことでした。
でも、就職せねばならない。社会人経験を持たねばならない。
と思っていました。
就職活動しているときは、したくない気持ちに蓋をして、
あらゆることが経験になるという思いだけで、動いていました。
(決して、無駄ではなかったと今は思っていますw)
辞めたら辞めたで、また、「せねばならない」を探していました。
「せねばならない」を辞めたくて、理由づくりもしていました。
家族は、自分の鏡といいます。
子どもの自由な姿は、私に自由さを思い出させます。
パートナーのなんでも丸をくれる姿に、本当はもう自分を信じていいことを思い出させます。
自分を信じたらどうして怖いんだろう?
間違えたくないから?
人に批判されたり、指摘されたくないから?
そこにあるのは、判断基準が『他人』であるということ。
軸を『他人』に明け渡しているという事。
人のいうことに耳を傾けることは、大切です。
けれど、明け渡してしまうと、自分がそこにいなくなる。
自分が生きて、いのちがあり、家族がいる、自分がいる、その意味は?
意味なんて、自分を生きること、ただそれだけ。
つづく
(「かわいい♡」と言われたかった理由を書けていませんので、次記事で…^^;)