ふつー、が生まれる毎日から。

"自分"に向き合った先には、『ふつう』がありました。ふつうって、幸せとイコールだった。そんな話を、私と、ムスメと、旦那さんとの毎日から。たぶん。

「ずっと」はない。

まだまだ小さいままでいて~~ と 抱っこも授乳も

じんわり幸せな日々。

 

でも、これも、長女という「はじめての赤ちゃんとの生活」「こそだて」を経験してこれたからこそ。

 

そんなに大変だった記憶はないけれど、

余裕があった記憶もない、長女との生活。

はじめてのあかちゃん、

いのちを預かるプレッシャー、

ちゃんとしなきゃ、という気持ち。

家事も、(他人から見られていると思っている側の)子育ても、ちゃんと。

そして、抱っこや泣いてる姿に、終わりや一区切りが見当たらない感覚。

 

こそだてに終わりはない。

長女が生まれたとき、「あ、はじまったんだ!!」と

途中で放り出すなんて絶対できないのだ、と引き受けていくプレッシャーを感じた覚えがある。

覚悟していたつもりでも、実際に赤ちゃんと対面し、自分が親と言う当事者になることで強く実感した。

 

そんな長女も来春には小学生…

ずっと小さいわけでも、話が通じないわけでも、いやいやしてるわけでもない。

 

「ずっと」なんて無い。

 

だから、今泣いてる姿も、おっぱい飲む姿も、抱っこできる時間も、

すごくいとおしいなぁと思う。

長女が沢山経験させてくれたからこそ、気づける気持ち。

 

私自身が眠かったり、したい用事があるときは、そりゃあ、

ひとりで寝といてほしいと思う。笑

 

余裕があるとはいえ、24時間常に一緒という、それだけの事実がストレスにもなり

泣き声や要求に向き合いたくない時もある。

 

けれど、今しなければならないことって、結構少ないことにも気づく。。。

特に今回は、旦那が家事をよくしてくれ、

仕事もゆっくりペースでさせてもらってる。

存分に、ぼんやりしている。

 

ぼんやりしてていいのかなぁと思う時もあるけど、

それもやっぱり、「今だけ」なのだ。

赤ん坊だってずっとねんねしてる訳じゃない。

動き出したら、また目が離せない。

 

だから、存分に、赤ちゃんとの時間を味わおうと思う。

 

そして、常に「はじめて」を教えてくれる長女。

「ずっと」は無いのだ。

口うるさく、行儀や礼儀や約束を言ってしまう時、長女の気持ちにも寄り添えているか?

守らねばならないこと、というのはどこからどこまでなのか?

「ずっと」出来ない訳じゃない

「ずっと」親の気持ちが分からないわけじゃない

「ずっと」話を聴かない訳じゃない

そう思うと、大人のこちらが、何を大事にしたいのか?何を伝えたいのか?をいつも問われているように思う。

 

きちんとしていないことに、こちらが苛立つのはなぜか?

話を聴かないことに、こちらが苛立つのはなぜか?

遊び、テレビばっかりで、こちらが苛立つのはなぜか?

思えば、こちらの都合でもあり、こちらの個人的な感情でもある。

そういう時は、「せねばならない」という話をするのではなく、「ママはこう思う」と伝えるしかないように思う。

 

「せねばならない」も、究極は無いのだろうから。